知足です。

今朝のNHKのあさイチという番組で豪雨被害が取り上げられてお 朝倉、杷木、添田町(英彦山麓)が紹介されました。→これらに日田を含めると、江戸時代までの英彦山神領(七里四 )なので、宮司が心痛めていました。番組の中で、添田町に人的被害がでなかった理由として以下の二点をあげていました。

1、異変の感度が高く、早く行動したこと。

2声かけを行い、避難をしたこと( 地域の結束)

もちろん杷木や朝倉の方々は、自然への感度も危機意識も高かったのですが、これまでの経験から筑後川に留意していたために、山側の土砂災害対応への遅れが出たのかもしれません。

英彦山山内は、昔の穴太衆(あのうしゅう)が組んだ石段や奉幣殿は無傷で、停電や断水からも免れています。縦横に巡らされた水路が水の流れを分散したようです。

添田町でヤマメの養殖をしている篠崎さんがインタビューに答えていました。ヤマメを救うために、二日間徹夜で水の濁りを除去する作業を続けていたにもかかわらず「自然がやったことは、仕方ないですよね」と答えていた姿が印象的でした。

添付の画像に、よくニュースにでてくる知名を赤で囲っています。孤立していた黒川は人の救助は終わったとのこと。ここの「共生の里こども美術館」は 小学校を改装した素敵な美術館でしたが、道路をつたって土石流が流れこみ、被害を受けていると聞いています。黒川や東峰村はアクセスができない状態なので 被害の全容がつかめていません。

救助やアクセス、インフラの復旧が急がれる中、朝倉インターは渋滞で大変なのだそうです。動くべき人が動けるような配慮が必要です。道路情報を杉本先生が教えてくださいました。→地図

杷木出身の友人の松本さん(糸島在住)が、ご家族の避難を受け入れる経緯を伝えてくださったので、一部転載します。

-----(杷木地区の避難について)

「ひとまず、各々の家にある食べ物をもって公民館に集合」と声を掛け合い、みなで集まったものの、水が出ない。。。(中略)その後、すぐに自衛隊の派遣は難しいとの情報を得て、自分たちで手を取り合って徒歩で志波小学校まで移動。けれど体育館にはクーラーがなく居心地よくなかったので、その後、サンライズに移動したと聞いています。とにかくすべて集落ごとに行動を起こしており、いわゆる「相互扶助」の精神が行き渡っていると感じます。普段から、道路愛護や区の清掃活動、神事、集いを経て、暮らしの中にその精神が根付いるからなのでしょう。(中略) 私の父も、実は、当初、避難することを拒んでいたそうです。でも、区長さんが回ってきて「あそこの家もここの家も避難しとり ます。」と聞き、ようやく重い腰を上げたと姉に聞きました。この近所や地域との関係性、個であることよりも集落としての集団 意思を重んじる田舎特有の傾向には、 もちろん一長一短がありますが、今後の大きな課題になっていくだろう復興・地域再生を考える時に 、無視はできないことです。

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また、松本さんは、地域の方々が集まった時に交わされる会話や笑いの力を指摘していました。それは、私も添田町の方々と話していて思うことです。松本さんの言葉には、避難や防災が日頃の生活の蓄積の上にあるものであり、多様な地域性を孕むものだと教えてくれます。マニュアルによる支援を行うと見落としてしまう重要な点かと思います。