知足です。
 7月1日(日)に「復興支援のための視察ツアー (黒川復興ガーデンとバイオアートプレ企画)」を行いました。
(九州大学ソーシャルアートラボの募集ページ)

http://www.sal.design.kyushu-u.ac.jp/180701_tour.html


 今回は「現場に立ち、感じることから始める」をコンセプトに、以下のフィールドを参加者と視察しました。


「災害流木集積所」
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 杉岡世邦さん(杉岡製材所社長)が午前中の行程を説明をしてくださいました。
 筑後川沿いの朝倉市田中付近に、累々と災害流木が積まれています。道路沿いに積まれた流木と、モンシロチョウが飛ぶのどかな草原が対照的でした。

 21万トンの流木は、ほぼバイオマス化されています。流木被害がクローズアップされがちですが、今回は土砂1065万立方メートルと共に、木をのせたまま土砂崩れがおきています。よく針葉樹(杉、ヒノキ)の根が広葉樹に劣るという話を聞きますが、杉岡さんのお話では根の引き抜き抵抗力(N値)において、杉、ヒノキは広葉樹より優位とのデータもあり、少なくとも同程度の強度があるそうです。(→北原曜「森林根系の崩壊防止機能」)


「杉岡製材所」
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 杉岡さんが、杉岡製材所内とレスキューした流木の土場を案内し、「命としての木をどう捉えるか」という視座を丁寧に伝えてくださいました。
 土場の中で一際目立つ、杉の流木があります。大きく張った根は引きちぎられ、災害の甚大さを伝えながらも、木そのものがもつ威厳は保たれています。それを杉岡さんは「おじいさんの木」とよびました。
 杉岡さん所有の山で、先々代から大切にしてきた象徴的な杉だったといいます。語りかけ、記念日には酒をあげ、撫育してきたそうです。(→西日本新聞記事
「先人が汗を流して植林し、下草をはらい、枝打ちをして森を作った木の恩恵は、自分が生まれる前の労苦が支えてくれている」
「あの流木群の中に、何代もかけて"命としての木"を心から大切にしてきた思いがあることを、忘れないでほしい」と、杉岡さんは話されました。

 さらに、樹齢400年の杉材の前で「材齢」というキーワードを教えてくださいました。
 経済の視点だけで考えると、この木を突き板(薄くスライスして、別のベニア材等に貼り付けた加工材)にするのが一番利率が高いそうです。
「しかし、突き板にしてしまうと、400年生きた木が、たった数十年しかもたない。法隆寺は数百年生きた木を、材にして1200年活かしている。これを私は樹齢に対して"材齢"と呼びたい。木が生きてきた年月を引き受け、それよりも長い材齢につなげる責任が、私たち(木挽)に課されている」 杉岡製材所に神社仏閣関係の依頼が多いのは、杉岡さんの「木への崇敬」に真実があるからだと私は思います。


「朝倉市立杷木小学校」
 開校144年の歴史があった朝倉市立松末小学校、久喜宮小学校、志波小学校は各地域の精神的支柱となっていましたが、2018年に杷木小学校に統廃合されました。この隣にある杷木中学校は災害直後から避難所となり、校庭には仮設住宅が建設されました。
 新設杷木小学校は、玄関は一階ですが、生徒の昇降口は二階に設置されています。 今後の災害に備えてのことかと思います。7/5に、私が災害流木で制作した「朝倉龍」が玄関入り口に設置される予定です→毎日新聞記事7/4
 災害を経験した子供達やその家族にとって、統廃合に伴う住環境、教育環境の急激な変化は相当な負担だったと推察します。
 今年の大雨や台風の音を聞くたびにに、胸の中に不安が押し寄せている子供達もいるのではないでしょうか。心が痛みます。


「松末小学校」

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 松末は最も苛烈な豪雨災害に見舞われた地域の一つです。小学校の最上階に避難した子供達を守りました。今も一階には、災害当日の黒板が再現され、土砂が押し寄せてきた跡が残されています。二階には、昭和初期からの卒業写真が展示されています。
 昨年の3/6に、松末の倒木と校庭の石で、子供達と時計を制作しました。校庭を追いかけごっこする子供達の姿が目に焼き付いています。→時計づくりワークショップ   体育館は寄付によって再建され、現在も地域の方に利用されているようです(視察中も体育クラブ関係の方々が出入りしていました) 
*小学校校舎の再利用について、九州大学災害復興支援団がクラウドファンディングによって「復興伝承館」を作るという提案をしています→西日本新聞記事


「共星の里 黒川INN美術館」

 朝倉市黒川にある共星の里は、廃校を再活用した美術館です。↓以下の画像は、災害直後(2017年7月)の共星の里です。私が復興ガーデンプロジェクト→企画案を企画した契機は、この時出会った一つの岩でした。

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 今回、その一年後に訪れたことになります。押し寄せた土砂は除去され、複数の桃色の凝灰岩が現れており、その光景に驚いてしまいました。岩たちが点在し、それらの「間」の佇まいが何かを言わんとしてるようです。

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 まず尾藤長司代表が、美術館1Fの蓄音機展示スペースを案内してくださいました。約100年前のエジソンが発明した型を含め、様々な蓄音機が展示されています。ラッパ部分の形状の美しさに気づきました。昔の筒状のレコードから、今、音楽が奏でられ共有される不思議さを感じました。電気ではなく、人が手回しする「自分エネルギー」による音は、何ともいえず温かかったです。
 
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 次に、柳和暢ディレクターが美術館内を案内されました。柳さんは50歳までアメリカで活躍された現代美術家です。展示されている作品は、どれも強いパワーに満ちています。このクオリティを担保してきた柳さんの審美眼やポテンシャルの高さを痛感します。

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美術館にはカフェが併設されており、空気感がふっと変わります→cafe&レストラン尾藤悦子ゼネラルマネージャーが、これまでの活動についてプレゼンしてくださいました。尾藤さん(ファッションデザイナーでもある)は、自然や神仏への畏敬の心をもち、どこか巫女的な雰囲気をもつ方です。

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 最後に柳さんが、共星の里の上部に流れ着いた巨石まで、案内してくださいました。途中、豪雨災害で流された家屋の跡地が続きます。逝去された方のために供花が手向けられており、参加者は長い時間手を合わせました。私は読経しながら、何かが土に染み入り立ち上がっていくような感覚を得ました。「供養」とは「思い出すこと」から始まります。被災地を訪れる方々は(マスコミも)、まず供養のために手を合わせなければならないと思います。

 渓流を沢登りしながら登っていくと、竹とパイプとビニールのホースが途切れている所がありました。「災害後、水路がとぎれたため、田畑に何とか水を引こうと試行錯誤して、結局あきらめた跡だよ」と柳さんが説明されました。大水と渇水。人間生活と水との折り合いについて、心の中で反芻しながら歩きました。

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 沢の中央に桃色の巨石が現れました。これを押し流す力とは、一体どれ程なのでしょう。この奥には、もっと大きな岩があるといいます。手と頭を寄せると、あたたかさを感じます。そのことを参加者に伝えると、その方は周囲の石を触って温度の差を確かめたそうです。(ツアー後、折口信夫の寄り石信仰に関する文章を送ってくださいました) リアルなものがもつ存在感と膨大な情報量は、現場に行かないと得られず、時間を経て心の中で育っていく力があります。

 最後の挨拶の際、柳さんと尾藤さんは巨石群のことを「この地に訪れてくださったもの」と、敬意をもって表現されました。彼らが自然と向き合う姿勢は、参加者達に強い印象を与えました (感想に、この言葉をあげた方が多い)。


​「道の駅 三連水車の里あさくら」

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 三連水車の里は、果実など地域の生産物を販売し、農業関係者のプラットホームになっています。お弁当を購入しましたが、素材に力がありとても美味しかったです。
 櫻木和弘館長が、災害直後に泥水が押し寄せる映像などをプレゼンしてくださいました。甚大な被害をうけながらも、復興の拠点となる強いレジリエンスを発揮したところです。
 櫻木さんのお話によると、道路復旧のための車両のため、集められるだけの重機を入れ、集中的に駐車場のスペースを確保したそうです。
「資金の目処があったのですか?」という参加者の質問に対して、「それは後から考えればいい、何処からも出なければうちでもてばよい、と考えとにかく動いた」とのこと。その敏速で利他的な判断と行動力に感銘を受けます。
 復旧の間、農産品を甘木や久留米まで持っていき販売していたそうです。高木地区の農産物を、毎日歩いて職員が受け取りにいく画像が紹介されました。
 防災の知恵として、日頃より飲み水の確保と、風呂の水は朝方抜くこと(トイレのため)を勧められていました。また、ボランティアの方々のおかげで、土砂のかき出しが順調に進んだことを紹介されました。災害の際のボランティアのありがたさを実感されたそうです。実働はもちろん、他者のエンパワーメントが、当事者の「復興感」に寄与することを強調されていました。